前身は蘇我馬子が建てた法興寺(飛鳥寺)で、都が平城京に移った八年後の養老二(七一八)年、移築された。「仏法元興之場 聖教最初之地」から名づけ、飛鳥寺は本元興寺と呼んだ。金堂など伽藍を整え南都七大寺の核となり、今の「ならまち」の大半を境内が占めた。東大寺の大仏開眼法要(七五二)で寺の隆尊が華厳経を講じ、僧三人が献歌した。
国宝の本堂(極楽堂)・禅室は、今風にいえば学者の起居する場と研究室を兼ねた僧房の「大坊」だった。三論、法相の拠点道場として重んじられ、密教や浄土教の教学上も注目された。秀でた先生を求め、宗派を超えて学僧が自由に寺を行き来していた。飛鳥寺の僧房移築を裏付ける部材は多く、軒を支えた巻斗(肘木などを支えるためにあるますがた)は、日本書紀に「飛鳥寺の材を切り出した」と書かれている崇峻天皇三(五九〇)年の材そのものと年輪年代法で証明された。禅室の柱の上部を連絡する頭貫も飛鳥時代のもの。本堂、禅室の瓦の一部にも飛鳥寺のものを現在も使用して行基葺きとされ、飛鳥の風格が漂う。
奈良時代の学僧智光は夢で極楽浄土を見て曼荼羅を描かせ房に遺した。それが南都の浄土信仰の中心になり、地蔵信仰や聖徳太子信仰、弘法大師の真言信仰なども混じりあって人々が集った。鎌倉時代の改築でその房を中央に三房分を本堂とした。本尊は仏像でなく智光曼荼羅で、内陣を取り巻く外陣を広く設け、大勢の参拝者が巡回できる。
中世以降、寺運が衰退し伽藍や堂塔の解体、分離を余儀なくされる中、庶民の信仰の聖地となった。明治には廃仏毀釈や戦争で無住の荒れ寺化したが、入寺した辻村泰圓住職が戦後の物資不足の中、修理に力を注いだ。その過程で本堂天井裏などで、物忌札や和合・離別祭文、千体仏など数万点を発見し、重要有形民俗文化財指定を受けている。
法輪館に国宝五重小塔がある。高さ五・五メートルで大半は奈良時代末の部材を用い、欄干や瓦など精密に作られている。仏像は阿弥陀如来坐像や聖徳太子立像、南無仏太子像、弘法大師坐像など重文が並ぶ。境内には石仏や仏塔が稲田の如く並び浮図田と呼ばれ、風化した石が庶民信仰を無言で伝えている。
寺は世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一つに登録されている。
※令和7年4月1日より改定予定
節分会 2月3日(令和7年2月2日)