瑠り光

令和7年(2025)43号 第二番霊場 霊山寺
【特別掲載】菩提僊那と行基菩薩(霊山寺まんが あとがきより)

【特別掲載】菩提僊那と行基菩薩

「霊山寺まんが」あとがき(故・青山茂氏(執筆当時 帝塚山短期大学教授))より
 
奈良の大仏さんといえば、誰ひとり知らない人はいないと思いますが、いまから千二百七十年あまりも昔、この大仏さんをつくるという大事業に深くかかわった二人のお坊さんの名を忘れるわけにはいきません。その一人は多くの民衆とともに大仏造立の土木工事を成功させた第一の功労者である行基菩薩(ぎょうきぼさつ)。そしてもう一人は、はるばるインドの国(その当時は天竺といいました) からわが国に渡ってきて、仏教を広めるとともに大仏さんのでき上がったお祝いのセレモニー開眼会の総合チーフプロデューサー大導師の役をつとめた婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)菩提僊那(ぼだいせんな)のお二人です。そしてこのお二人は、奈良の大仏さんにかかわっただけではなくて、大仏造立のはるか以前からお互いに意気投合して、平城京(ならのみやこ) の西の郊外に立派な仏教道場を開設したのでした。それが現在の霊山寺です。ことばを変えていってみれば、このお二人は都の東の山麓には花やかな東大寺大仏を、そして都の西の山あいの静かな別天地には、真の仏教の教義を勉強し実践する小じんまりした学問所・霊山寺(りょうせんじ)を、実に対照的に残されたのです。
 

 
しかも、このお二人のどちらもが、まるで申し合わせでもしたかのように、自分たちの永遠の安住の地、つまりご自身の墓所を、遺言によっていずれも都の西の静かな山あいを指定されたということを、私どもは深い感慨をもって考えないわけには参りません。
 
ご存知だと思いますが、菩提僊那は遥か天竺の生まれ故郷とお釈迦さまが悟られた場所の山河のたたずまいに大変よく似た富雄川のほとり、霊山寺の境内に遺言通りいまも安らかに眠っておられます。一方西大寺の南の菅原寺で亡くなられた行基菩薩も、死の直前に遺言されて、ご遺骸は生駒山の南麓の有里の竹林寺に運ばれ、ここで火葬にしてお骨はそのままこの地に埋葬されたのです。いずれも、当時の都の栄華や喧騒を避けて、西の郊外に永遠の地を求められたところに深い意味がひそんでいる、といえるのではないでしょうか。
 
さて、インドで生まれた菩提僊那が、はるばるわが国を訪れるきっかけになったのは、いったいなにだったのでしょうか。その直接の動機は奈良の唐招提寺を建立したことで有名な唐の高僧・鑑真和上と同じように遣唐使や遣唐僧の招きによるのですが、それでは彼がインドから中国に旅行して来た理由の説明にはなりません。
 
伝えられるところによりますと、南インドに生まれた菩提は、幼少にして仏門にはいり、仏教の勉強を志しました。仏教の学問を深くすればするほど、仏教はインドから東の方へ東の方へと伝わって行くのが昔から宿命のように定まっている、と彼は感じたようです。ことに、釈迦の代理をも勤めたほどの智恵のすぐれた文珠菩薩は、獅子の背に乗って遠く東北に旅立ち、中国の五台山で修行した後、さらに東に出発したと伝えられているのでした。このような「仏教東漸(ぶっきょうとうぜん)」と「渡海文珠(とかいもんじゅ)」の思想に支えられて、彼はインドを後に、東方の中国・五台山を訪ね、ここでわが遺唐副使中臣朝臣名代(なかとみのあそんなしろ)や留学僧理鏡らに七三三年(天平五年)に会った、というわけです。
 
彼は、五台山よりさらに東にある日本の国に、ひょっとすると文珠菩薩が居られるかもしれない、と思い五台山での仏弟子の二人の友人をさそって日本へ渡る決心をしたのでした。そして、七三六年(天平八年)遣唐副使中臣名代の船に乗って五月に大宰府に到着、八月八日には難波津に無事たどりつくことができたのでした。同行してきた友人は、中国五台山で戒律の研究をしていた道璿(どうせん)と、もう一人は林邑(りんゆう、いまのベトナム地方)の出身で仏教音楽にくわしい仏哲(徹)の二人でした。
 
大宰府からの知らせで、わが国の平城宮の政府からは、この三人のすぐれた仏教徒を迎えるのにふさわしい人物として、行基菩薩に白羽の矢をたてたのでした。そして、はるばる渡航してきた菩提僊那ら三人と行基とが、難波津で初対面するわけですが、行基菩薩の人徳をひと目で見抜いた菩提僊那は「この人こそ私がインドから探し求めていた文珠菩薩の再来」と大いに感じ入った、というわけです。
 
初対面の感激も冷めやらぬ平城宮への道すがら、行基が聖武天皇の勅願で建設途中の霊山寺に立寄り、この地が遠来の菩提僊那の心を捕えてしまったのは、先に述べた通りです。平城宮で聖武天皇に拝閲した三人は天皇から“時服”を賜わり、大安寺に住房を与えられて菩提僊那は華厳経の講義や呪術の研究にたずさわって八世紀のわが国の仏教を大いに国際レベルにまで引上げる大役を担いました。
 
そして、その集大成ともいえるのが、天平勝宝四年(七五二) 四月九日の大仏開眼会の導師です。聖武太上天皇、孝謙(こうけん)天皇ら百官百僧の前で、この大盛儀のチーフプロデューサーとして開眼の筆を執り、その軸に結んだ縷(る)を、天皇以下万余の参列者が引きみ仏と心を一つにしたのです。
 

 
この大仏開眼の盛儀に漕ぎつける大土木工事の名実ともの功労者というのが、さきにも触れた行基菩薩だったのですが、行基はすでにその時、この世の人ではありませんでした。
 
悲運な行基さま。それは、この終末の悲運だけではありません。行基菩薩は大阪湾に面した和泉国大鳥の高志氏の一族として天智天皇七年(六六八) に生まれたと伝えられています。高志氏というのは大陸からの渡来の一族で、彼が国際的な視野のもとで、国家管理の当時の仏教をあきたらなく思ったのも、そのような環境に育ったからかもしれません。十五歳で出家して仏教学を当時の第一人者であった飛鳥寺の道昭や岡寺の義淵らについて学び、四十歳以後、平城京の佐紀堂を出て都の西郊の生駒山麓の仙房で六年間にわたって修行を積むのです。この実践的な彼のもとに、多くの民衆が集まって、行基の信奉者となるのですが、このような状況は、当時の政府側からすると、民衆をそそのかす不穏な行為と映ったようです。
 
当時の記録(『続日本紀』) によりますと、養老元年(七一七)と同六年(七二二) の二度にわたって、平城宮の政府はおふれを出して、行基が百姓をたぶらかし、みだりに仏教に導き入れるのは好ましくないので禁止する、旨を伝えています。でも、そのような政府の通達にもかかわらず、数千、あるいは万を数える民衆が行基のもとに集まって、行基の教えによって道路を開いたり、池を掘ったり、道場を建てたりしたといいます。
 
ちょうどそのころ、聖武天皇は大仏さんを造ることを決心されました。そして、大仏を造るのに、天皇の権力や財力だけで造ったのでは決してその目的を達することはできないのだ、と民衆の力の協力の必要なことを詔勅(しょうちょく)の中で力説されました。このような、聖武天皇の御意向を受けて、政府はそれまでの行基への弾圧政策を引っこめて、むしろ民衆を率いての大仏造立参加への誘いに転じたのでした。
 
聖武天皇の大仏造立についてこのようなお考えに共鳴した行基菩薩は、それまでの行きがかりを捨てて、民衆とともにその土木工事に積極的に協力することになるのです。それまで、政府から迫害を受けながら各地で土木工事にたずさわってきた民衆たちですから、行基らの協力は大仏造立についてなににも増しての力強い支援となりました。
 
大仏鋳造がほぼ終わった天平二十一年(七四九) 二月二日、行基は大仏の開眼を待たずに八十二歳の天寿を終えます。この偉大な行動派の僧行基は、その一生のうちで、建立した道場四十九、運河四、橋梁六、港三、池七、溝七、樋三にのぼった、と伝えています。
 
古くから東大寺では、大仏造立を勅願された聖武天皇を中心に、菩提僊那、行基菩薩の二人と初代東大寺住職良弁僧正の四人を「四聖(ししょう)」として祀っています。
 

 

 

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