バスツアーなどで関西、関東方面の団体客らが訪れる。本堂で梅中堯弘住職から寺の成り立ち、ご本尊の話などを聞き、その後三々五々、堂内の内外陣に鎮座する仏さまを拝観する。「心と体の健康を願って見ていただければ…」。梅中住職の参詣者への想いである。
奈良時代の和銅年間(七〇八〜七一五)に、元明天皇の勅命により鎮護国家の道場として建てられ、年号から和銅寺と号していた。
延暦年間には、伝教大師最澄上人が比叡山を開創され、堂舎建立の木材を甲賀の地に求められたが、連日の日照り続き。請雨祈願の浄地を探していると、岩根山の中腹から一筋の光が差し込む。山に登るとお堂、その東に百伝池があり、池中から一寸八分の薬師仏を勧請された。この薬師仏を本尊として請雨の祈祷すること七日間、大雨が一昼夜降り続き、堂舎建立の木材は無事、現在の野洲川を下って比叡の麓に運ばれたという。
後に京の都で桓武天皇ご病気の折には、霊仏出現のあの池の水を薬師仏にお供えし、病気平癒を七日間祈願し、その霊水を天皇に献上したところ、病気がたちまち平瘉され「善水寺」の寺号もこうした縁によって賜ったものと伝える。伝教大師最澄のおかげで善水寺は中興され、この地方の天台寺院として信仰を集め、繁栄した。
しかし、延文五(一三六〇)年の火災によって焼失。
優雅な雰囲気が漂う国宝の本堂は、南北朝時代の貞治五(一三六六)年の再建である。木造平屋建て、入母屋造檜皮葺、桁行七間、梁間五間。屋根の四隅の反りが夕陽に映える。堂内は天台密教仏殿形式で外陣、内陣を菱格子で区切られ、本尊の薬師如来坐像は一木造りで本堂の厨子内に安置される。胎内からは正暦四(九九三)年の願文や種籾が納められていた。種籾は本堂に展示。脇侍には梵天と帝釈天、さらに四天王とかつての根本中堂様式である「梵釈四王」の六天様式を伝える貴重な存在である。
遠来の参拝客らは数珠を手に、国、重文級の仏像一体一体を目の前に拝みながら、静かに頭を下げ祈りを捧げていた。
准仏会 5月5日
笈渡会 7月第一日曜
千灯会 10月8日